アート・プロジェクトの会長である広瀬健一は、1982年に株式会社アートライフに入社。
主にフランス巨匠作家を日本の百貨店美術画廊にて企画販売を行っておりました「展示営業部」に配属されました。
他に、美術館へ「ダリ展」「ロートレック展」などの企画をコーディネートしている企画部門があり、㈱アートライフにはフランス語や英語が堪能なスタッフが揃っており、20人規模の神田神保町にある会社でした。
当時のパリには、マルク・シャガールは現存しており、所謂「エコールド・パリ」は、パリに集まった外国の作家たちの総称でありますが、
- 藤田嗣治(レオナールフジタ)
- モーリス・ユトリロ
- マリー・ローランサン
- モディリアーニ
- ジュール・パスキン
- サルバドール・ダリ
などそうそうたる巨匠を輩出しております。
他にもフランス人の、
- アンリ・マティス
- モーリス・ド・ヴラマンク
- ラウル・デュフィ
- フランシス・ピカビア
- フェルナン・レジェ
- ジョルジュ・ブラック
など数えきれないばかりか、ここでは記しませんが多くの日本人洋画家がパリを目指して留学しておりました。
まさに「芸術の都巴里」でありました。
1983年当時は、日本の高度成長期に助けられて、多くの日本人が憧れのパリを訪れました。
㈱アートライフは、1975年頃よりパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ルオーや巨匠作家などの版画作品を精力的に日本へ紹介し確固たる地位を築いてゆきました。
私は、3年ほどでアートライフを辞職して「ギャラリー広瀬」として独立する決心を致しました。
理由としては、「なんとなく画商として生活できる自信があった」とか「茨城にある自宅から、神田神保町までの電車通勤が大変だった」とかでしょうか?
アートライフの勤務が嫌なことはなかったです。
それどころか、大好きでした。
何よりも、版画商に愛着があり、勤めて頑張るよりも自分の力で道を切り開きたかったのだと思います。
1985年3月中旬に四国の百貨店にて「シャガール版画展」をアートライフの最後の仕事としての出張販売をしておりました。
その「シャガール版画展」会期中の3月15日にシャガール死すの悲報が報じられると、展示作品がほぼ売れてしまいました。
ピカソが1973年に亡くなったときは、展示作品が完売したとアートライフの先輩たちに伺ったことがあります。
いずれにせよ、この年の4月末にて退職し、6月に「ギャラリー広瀬」立ち上げ、よちよち歩きの画商生活が始まることとなりました。
不安はもちろんありましたが、追い詰められた野獣のような気力が満ちていたことを覚えております。
次回、「風呂敷画商から百貨店美術企画販売への転身」
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